潮風の唄


波の音が港から吹き上がってくる風に乗って運ばれてくる。
心地よいその音を耳の端で聞きながら彼女は目を覚ました。
目を覚ましたといっても起き上がったわけではない。
意識がぼんやりと半分程度覚醒した、いわば寝惚けているような状態だ。
彼女が眠っていた部屋はそう広くはない。
質素な木のテーブルと椅子が1組あり、テーブルの上には水差しとコップが置かれている。
ベッドのすぐ側には窓があり、薄いクリーム色のカーテンが風に吹かれて時折ふわりと広がる。
外は今日も良い天気らしくカーテンが広がるたびに風とともに眩しい光が射し込んでいる。
少し寝すぎたのかもしれない。
射し込んでいる光が爽やかな早朝というよりは、やや元気のある昼に近いものを感じながら彼女はむくりと起き上がった。
そよそよと吹く風がカーテンと彼女の茶色がかった黒髪を揺らす。
数日振りの地面の上での睡眠。
船も慣れたとは言ってもやはりこちらのほうが良く眠れている気がする。
たとえそれが安宿の硬いベッドだったとしても。
寝ている間に乱れてしまった髪を適当に手櫛で整えて、ベッドから立ち上がる。
やや小柄な身体には部屋に備え付けてあった就寝用のローブを着ている。
肩にかかる程度の長さの、おかっぱにも似た髪形。
他よりやや長いもみあげはまるでトレードマークだ。
目を閉じたまま両手を上へ伸ばし思いっきり背伸びをすると少しもやもやしていた寝起きの頭もすっきりしてきた。
「今日も一日がんばろう」
ぽつっと呟いて目を開く。
なんだか気合も入った気がする。
まずは汗を軽く流そうと、椅子の背に掛けておいたタオルを手に、彼女は浴室へと部屋を後にした。



ここはアルベルタ。
首都プロンテラから南東に位置する、白い石畳の美しい街並みが特徴的な港街だ。
冒険者の商人たちを統括する商人ギルドがあり、商いの道を志す者はまず最初にこの街を訪れる事になる。
また、定期的に冒険者による蚤の市と呼ばれるバザーも開かれており、オークションが行われるなど
プロンテラの露店街とはまた違う活気を見せている。
元々はプロンテラの衛星都市イズルードとの往復航路がメインで栄えてきた街だが、近年はそれ以外にも様々な航路が発見され、
冒険者の海の向こうの国への玄関口としても賑わっている。
そんな街のとある宿の食堂で、一人のバードが楽器の手入れをしていた。
長い髪を高めの位置でポニーテルにしてまとめている、なかなかの好青年だ。
赤みの強い、ともすれば攻撃的とも感じる髪色だが、顔つきが穏やかで全体的に温和な雰囲気を醸し出している。
10席程度の食堂には彼のほかに人は居らず、実質彼の貸切状態になっていた。
彼の側のテーブルの上には飲みかけのコーヒーと手入れに使うらしき数枚の布や円形の小箱が置かれている。
彼は真剣なまなざしで手にしたバイオリンの表板を丁寧に拭いていた。
バイオリンは少々古ぼけたように見えるが手入れが行き届いているため痛んだりはしていない。
美しい光沢があり見ようによってはアンティークに見えなくもない。
しばらくしてふう、と一息ついてバードはバイオリンを拭いていた布をテーブルに置いた。
空いた手はそのままコーヒーカップへと伸びる。
どうやら一段落着いたらしい。
カップに口をつけ、コーヒーがすっかり冷めていることに少し驚く。
柱の時計を見ると確かに席についてからずいぶん時間が経っている。
貸切状態が幸いしてずいぶん集中していたらしい。
彼は改めて綺麗に拭き上げられたバイオリンを満足げに眺めていたが、ふと気配を感じて食堂の入り口を振り返った。
「おはようございます。良く眠れましたか?」
「おはよう。ちょっと寝すぎたぐらいかな」
やってきたのは先ほどの黒髪の彼女だ。
軽くシャワーを浴びたらしく、毛先がほんのりと湿っている。
「オラトリオは普段どおり起きた?」
食堂の中へと入ってきた彼女がバードのテーブルの上を見る。
この様子からして朝食は既に済んでいそうだ。
「ええ、起こすのも悪いと思ったので先に頂きました」
にこりと微笑んでオラトリオと呼ばれたバードが返す。
「ルカさんはどうしますか? 朝食はランバリオンさんを待ちますか?」
「んー、どうしようかな」
ランバリオンというのは二人が一緒に旅をしているロードナイトの名前だ。
腕組みをして首を傾げて悩むルカ。
手首のブレスレットがシャランとなった。
ルカは先ほどの就寝用のローブから露出の高い衣装へ着替えている。
最低限に近い布量しかないその服装はまるで水着のようだ。
金銀の糸で飾られたその衣装は女性の身体の魅力を効果的に引き出すようにと作られている。
彼女の職業はダンサーなのだ。
「オラトリオはこの後どうするの?」
しばし悩んでいたが、決めかねたルカが逆にオラトリオに聞き返す。
「私はバイオリンの調律をしたかったので、港まで散歩しようかと思っていました」
コーヒーをさっと飲み干して、テーブルの上を片付けつつ答えるオラトリオ。手入れはまだ終わってなかったようだ。
「流石にここでは他の方に迷惑ですし」
今はどなたもいらっしゃいませんが、と付け足してオラトリオはカップを持って立ち上がる。
そのまま食堂の奥へと進みカウンター越しにご馳走様でしたと厨房へ声を掛けて、カップをカウンターに置いた。
厨房からはあいよと威勢の良い中年女性の返事が返ってくる。
――ぐううぅぅぅ
そんなやりとりを見ていたルカのお腹が急になった。
朝食もまだなのだから当たり前といえば当たり前だ。
「一緒に散歩に行こうかな。ランバリオンはいつ起きるかわからないし……」
お腹の音を少しでも紛らわそうととっさにお腹を押さえて俯いたままルカは答える。
「朝食だけは先に食べてから行きますよね?」
待ちますよ、と言い掛けてオラトリオは言葉を飲み込んだ。
お腹を押さえたルカがキラキラした目でこちらを見ている。
ばちっと目が合った瞬間にルカは満面の笑みで一言。
「港の市場で美味しいもの食べようと思う」
おそらく他意はないのだろうがあんな目で見られてはつい甘やかしてしまうのは仕方がない気がする。
港でルカに食べ物を買い与えている自分を思い浮かべて、オラトリオは思わず横に顔を背けて苦笑いをしてしまった。
ルカは表情の意図することがわからずきょとんとしている。
(まあ、それも悪くないか)
バイオリンを右手に抱えて、ルカに向き直る。
「それじゃあ、散歩へ行きましょうか」
にっこり爽やかな笑顔で、オラトリオはそのままルカの横をすり抜け食堂の入り口へ歩き出した。
「え、ちょっと待ってよ」
柱の掛け時計が10時を告げるのを背中で聞きつつ、ルカもその後姿を追いかけて食堂を後にした。


To Be Continued